TOMOIKU 共育-経営者が思う21世紀

経営30年で経験や想うをことを綴っています。センスある生き方や生活が彩られますように…

シンプル生活から見えてくるモノ「無事是貴人。ただ造作することなかれ。ただ平常なれ」

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56歳って「敬老の日」にお祝いしてもらう年齢なのかしら?

祖母になったのだから…お祝いしてもらっていいのかなぁ…苦笑

先月の話ですが、「敬老の日」のお祝いで小学校で祖父母参観がありました。

孫の祖父母参観に行ってきて、「おじぃさん・おばぁさん、ありがとう~」なんて、小学生の全員の挨拶と、子ども達と祖父母との合奏「ふるさと」を歌いながら横に座っている祖父母たちは、泣いていました。

校長先生の話で「命の連鎖」のお話でも、涙を拭いながら頷いている祖父母の方々が多くいました。

感慨深いものがあります。

 

息子達が通った小学校…教室で、孫が学んでいるので、ちょっと前までは母として授業参観に行っていたのになぁ…なんて懐かしい教室で孫の授業を観ていて、自分の年齢を再確認してしまいました。

息子達も自分の家庭を持ち、守ってもらう子供から家族を守る立場になって、私は息子達に対して何も心配することがなくなってしまい…自分の好きな生き方ができる…そんな50代。

子育てしながら会社を経営していたので、取引先が倒産して資金繰りや過度なスケジュール、仕事と育児で時間が足りない状況…様々な苦しいこともあったのですが、今思うと一瞬で終わってしまったような気がします。

あんなに大変だったのに…今ではそんなことさえも懐かしい…学べたとさえ思えて、若い時って突っ張って頑張っていたような気がします。

若い時ってギラギラ生きていても何の違和感もなく時が過ぎて、次のステップを歩む50代では気持ちの余裕からなのか、見えていなかったものが見えてきます。

失敗してしまう人やお金に執着してしまったがために老いて孤独になる人には共通点があり、そのことを若い時に人に指摘されていてもわからないものなんですよね…

そして挨拶ができず言葉遣いが悪い人に成功はないものなんだ…とつくづく思います。

それは言葉は心の鏡だから…。

若い時はカッコイイ・感情に任せて吐く言葉なのかもしれませんが、応援者は営業的な表面の言葉ではなく「心」を感じるものです。

人生に大成する人って、信念と優しく厳しいオーラがあるんです。

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シンプル生活から見えてくる「放てば手にみてり」を実感

放てば手にみてりはなてばてにみてり

50代だからできることなのかもしれませんが、手放してこそ大切なものが手に入る…とつくづく感じたのです。

会社経営の責任から開放されてから、様々なものが私の中に浸透して、また新しいチャレンジのチャンスを手に入れる思考が生まれたことは、私にとって大きなことでした。

金メダリストの荒川静香さんが「メダルを取ろうなんてまったく考えずに滑ったら、金メダルを取っていた」という言葉があります。

勿論、有言実行というメダリストもいますし、プレッシャーに打ち勝ってメダルを手にした人もいます。

人それぞれの気持ちの持ちようだと思うのですが、欲や執着を手放したら最高のモノを手にできる人がいるのだと思うのです。

若い時って人と比較してみたり、あれもこれも欲しい!と思うことが多いような気がしますし、若い時はそれが活力にもなるので、それでいいと思います。

しかし中年…40代…50代と歳を重ね子育てが終わると、欲をかくばかりではなく「自分は今後どのように生きていく?」ということを、自然の流れで考えはじめ新たに見えてきたものがあるような気がします。

心に余白ができたからなのかもしれません。

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肩書き・地位・財産…歳を重ねるほど荷物が増えていく上、せっかく手に入れたものを簡単に捨てられないのが人情なのですが、背中がどんどん重くなるばかりです。

健康で家族みんなが笑って暮らせる幸せがあることを当たり前に感じ、その大切なことに対して感謝の気持ちも忘れてしまうほどの大荷物なのかもしれません。

でも、気持ちの中で捨てるべき転機が人生の節目にはあって、そんな時こそ「放下ほうげ」してみると、「素」の自分が見えてくるものだと思います。

固執していたモノ達の整理をして、心も身の回りのモノもシンプルにしてみると、新たに感激できたことや感謝できることが増えてきます。

私は「いる!」と思うモノまでを削ぎ落とすと言っているわけではなく、安全で良質なモノを大切に使うという基本は、生活の軸にはなっています。

心が穏やかになるモノを捨てることではなく、形があるないに関わらず「重荷になるモノ」を手放すということです。

禅では「捨てたという意識さえ捨てる」という最もシンプルな生き方が、心地よいとされています。

そこまで凡人の私が極めるのは難しいのかもしれませんが、手から放たれたとき自然に手に満ちてくる…という、感情は理解できるようになりました。

 

私は、ネットでのお友達Rinさんのブログを読み始めてから、部屋の整理を心がけるようになっています。

RinのシンプルライフPowered by ライブドアブログ

私は重度更年期障害で会社経営を事実上責任職をおり、ネットの世界を知るためにブログを綴るようになった頃だったので、家にいる時間が増え、お部屋の掃除についてきれいに掃除をしていればいい…と思っていた意識から、不要なものを削ぎ落とすという気持ちになりました。

今後の私にとって大きな転機となりますし、今では新しいチャンスがとても心地よく感じるんです。

Rinさんとは年齢も近い(失礼かな?)こともあって、共感できることが多く無理をしないで生きていく姿は、シンプルな生活から生まれた感情も豊かになっていくことを感じられます。

Rinさんが一部記載されている書籍も出版されていますよ。

気になる方は、是非書店かアマゾンへ♪

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日日是好日-どんな日だってかけがえのない1日!

小さなうれしい出来事があると、とても充実した気持ちになる…、そんな日常的でシンプルな生活が私は好きになっています。

嫌なことがあって落ち込んで1日を終えてしまうこともありますが、でも小さなうれしい出来事でどこかに飛んでくれることが多くなってきています。

 

日日是好日にちにちこれこうじつ

 

「日日是好日」は毎日が平穏無事な日々という意味で使われることが多いですが、従来は「人間はのんびりと無事に過ごすだけでは成長もしないから駄目」という意味なのだそうです。

今この一瞬を大切にして、いつも新鮮な気持ちで日々を迎えて自分の生き方に手を抜かないことが「良い日」をもたらす。…という意味です。

辛いことや悲しいことを受け止め、日々を大切にする…自分のモノを大切に使用する…その中から充実感が見えてくる…それが、日日是好日です。

 

心も自分の位置(部屋)もゴチャゴチャしていると、気持ちよく過ごせることはなく、部屋も心も整理整頓をするという実にシンプルな生き方で、心が整い小さな幸せを感じることができる方が心地よい日々を過ごせます。

そしてシンプルにすることと、何でも捨てればいいということでは意味が全く違うと思うのです。

私は食器を見てから「今日は何を作ろう…」と考えるほど、食器が好きです。

食器の歴史や産地、土の加減や自然に色づく光沢や、人の筆によって描かれた丁寧な仕事…そんなことも考えて食器を選びます。

しかし、食器に興味がない人にとっては不要なもの。

不要なものとは無駄なものであって、自宅に眠ってしまって何の役にもたっていないものであるならば、そのモノが大好きで大切に使ってくださる方の手に渡った方がいいのでは?…という考えです。

擬人化になってしまいますが、モノだって喜んで使ってくれるからこそ存在意義があるような気がするのです。

 

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「求心やむ処即ち無事」いつか感じられる日を…

 

求心やむ処即ち無事ぐしんやむところすなわちぶじ

 

「求める心が止めば、そこにこそ安らかな境地がある」という意味なのですが、外と比較することなく自分の純粋な魂と出会い気づいたら安らぎの境地がありますよ…ということです。

 

無事是貴人ぶじこれきにん。ただ造作することなかれ。ただ平常なれ。

 

健康で自分が自然のままにいられることがどれだけ幸せか…そのことを知り感謝し、そこにとどまれる人は幸せ…ということ。

 

外(他人)にばかり目を向けて幸福を探してしまいそうになりますが、自分の幸福のもととなるものは、もう自分の中にあるものなんですよね。

 

私はまだシンプルに整えきれていないような気がしますが、心が整い「求心やむ処即ち無事」と、ふとした事で気づき、「無事是貴人。ただ造作することなかれ。ただ平常なれ」と日常を過ごせたらステキだなぁ…と思うのです。